昭和48年01月24日 朝の御理解
御理解 第21節
「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっ ても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなけれ ば火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
信心なければ世界は闇と。信心があれば心の中は明るい、家の中も明るい。それに伴うて、社会も又明かうなるという事になる訳です。そこで果たして私共の心が、明るいかどうか、家庭が明るいかどうか、自分のおるところ、必ずそこには光がある。明るいかどうか、思うて見なければいけませんですね。という程しに信心と言うものは、値打ちのあるものなんです。だからそういう値打ちのある信心をしなければならない。
信心はしておっても、いつも不平不足。信心はしておっても心はいつも闇。これでは信心を頂いておる値打ちが無いわけです。そこで値打ちのある信心をしなければならない。私は今日大体人間の値打ちというのは、どう言う様な事だろうかと思うて、色々色々な働きの出来る人がそれこそ、超人的な働きの出来る人もあります。様々な特別な技術やらを持ってる人もあります。色々な意味で、世のお役に立ってる人もあります。ですから結局、そういう値打ちのある人という事は、色々沢山ありましょうけれども。
神様がご覧になって、値打ちのある人間と言うのはね、今日神様に頂いたのは、「値」ですね、人遍に直と言う字が書いてある。神様がご覧になって一番値打ちのある人間はね素直にね、素直に信心を進めると言う人が、一番値打ちのある人間です。神様からご覧になる値打ち。ですからそういう信心を進めていく人は、例えば値打ちがあるのですから。例えば金銀銅とこう申しましょうか。やっぱり一番値打ちのあるのは金でしょう。一番値打ちのあるものが一番高く、いわば評価されるわけです。
だから神様が評価して下さる。値打ちのある人間になればなる程です、いわば値段は高うなる訳です。いうならおかげは愈々大きくなる訳です。皆さんこの事をね、神様がそうおっしゃるのですから本当なんですよ。だからもう愈々ね素直にね。どういう風に素直というのを使うかと言うとですね。例えば信心で申します、この安心とこう言う。安心立命と言うですかね、仏教的に言うと。安心のおかげを頂くという事が一番ですけれども。その安心は、どこから安心が出来るかと。
もう信心しよりますけん、安心しとりますという様な安心じゃないです。その人が何かに直面した時にもう青うなっとったり、腹を立てておったり、そこから尻込みしたりするなら、それは本当の安心じゃないでしょうが。ですからね行く手に有るもの。私共の行く手に有るもの。もう一切が神愛だと分からせて貰うこと。だからすべてを御の字をつけて頂かせて貰うという頂き方。そういう頂き方を素直に素直に頂いていく人を、神様がご覧になる素直と言うのです。
だから、普通一般で言う、あの人は本当に素直人間だと、言うととは、ちょっと違うようですね。素直に、例えば、私の前に起きて来る問題なら問題でも、それを御の字をつけて、御事柄として、素直に受けて行くという人間。もうこれが、人間の最高の値打ちのある人間なんです。だから、最高のおかげが受けられるです。それを御徳と言うのです。御神徳。一つ、本気でね、素直に素直にならせて頂きますとね、家の内に、素直でないのがおっても、それも必ず素直になって行くです。
今日私その後に、竹林をこう頂いた竹林を。そしてねそこに生えておる木やら、草やらがね、まっすぐ伸びておる所を頂いた。だから素直な中に入って来るとね、曲がっとるとでん、背が正しくなって来るです。これは言わんでも語らんでも。だから素直な信心の家庭にですよ。そんなら店員さんを雇うたり、女中さんを雇うたり致しましょう。もう必ずそれを黙って祈っていっていると、必ず素直に伸びて来るです。そういう働きがあるのです。これはもう自然の道理に合うた事なんです。
どんなにこうこ曲がりくねって成長する植物であってもね。竹林の中で育つのはまっすぐ育つという訳なんです。素直にまっすぐに育つ。だから子供の中に曲がったつがおるというのは、いかに親が曲がっとるかと言う事が分かる。親が素直にすくすくともうそれは家庭中でね、竹林にならにゃいかん。一人二人じゃいかん。家族中の者が素直に素直にという信心。そんならその素直にと言うのはです。
人間の神様からご覧になる一番の値打ち人間なんです。一番値打ちのあるのですから、例えば金銀銅で申しました様に、金が一番値打ちのあるから、金が一番高い様に値打ちのある人間は高く評価されるです。おかげもだから最高のおかげが受けられると言う事です。神様がそう仰るのですから、一つ皆さん本当なのですから、愈々素直にならにゃいけんです。ものを素直に見る素直に聞く、素直に受けていくという生き方です。
そういう例えば、生き方をさせて頂く所に、そういう信心をさせて頂くと言う事がね、ここでは、信心なければ世界が闇と仰るが、ただねご利益を受けるから、信心しよると言うとが、千人万人おったっちゃ世の中は明かるうならんです、自分中心ですから。只今、私が申します、信心によって生まれて来る素直。物事を素直に見、素直に聞き、素直に行う、素直に受けて行く。
そういう人間が、家の中に出来ると、家中が明かるうなり、それが段々大きくなって行くと、言わば世界を明るくするほどしのおかげになって来るのです。神様がご覧になって、一番値打ちのある人間というのはです。技術が上手いとか、特別の働きが出来るとか、社会に様々な事で貢献しておるとか。なるほど、それもやっぱり、それぞれの値打ちがあるから、やっぱそういう人は、丁重に扱われる事になる訳ですけれども。
最高のおかげを頂くと言う事は、最高の値打ちと言うのは、人間が素直に信心をする、素直にものを見たり聞いたり行うたり素直に、成り行きを大事にさせて頂きながら、御事柄として受けきって行こうという信心。だからそういう信心を、とてもそれは難しかと言わずに、わが心が神に向かうのを信心というのじゃとおっしゃる一番初めにね。信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃと分かった時に、人間がおおあらたまりに改まった時なんです。
だから全ての事柄も問題もです、やっぱり神に向こうて進化して行く事のための、それなんです。難儀と見えとるのは難儀じゃない。いわゆる神愛なんです。だから根本的に信心せよ、信心とはわが心が神に向かうのを信心というのじゃ、信心せよ信心とは財産が出来る事ぞ、病気が治る事じゃないと言う事なんです。信心とはわが心が、愈々神に向こうて行くのを信心というのじゃと言う。
その根本的な所をおお改まりに、私どもが改まって、物やら金やらの方へ向きを変えておったのが、神様の方へ向きを変えた時にです。例えばいよいよ値打ちのある人間として、私の行く手に困った事というものがある筈はないという確信が生まれて来る。困った事じゃない。有る物はみんな神愛だと思うから、よし何時どういう事が起こって来るか分からんけれども、それはいよいよ神に向こうて行く為の、一つの手段であり段階だと思うから、心が安らぐ何時も安らいでおる。これが本当の安心なんです。
信心しよりますけん安心しとりますと言うとも、何かなしに安心のごたるけれども、それはただ安心感と言うのです。実際の所に直面するともう青うならんならん。もう慌てんならん。それでは安心じゃないでしょうが。どういう事が起きてきても、私共の行く手に起きて来る事の全てがです。私共が心が神に向こうておる為の、神になる為のいうならば、心を磨いていく砥石以外にはないという風にです。分らせて頂く時に生まれて来るのが安心です。これが本当の安心。
そういう安心のおかげを頂きながらね、先日から申しておりますように傍楽なんです。楽の中での一番の楽というのは、働くという楽が一番の楽じゃと仰る。只今私が申しましたような、生き方にならせて貰うでしょう。そういう心で何時も自分というものを空しうしながら、自分の周囲が潤うていく、自分の周囲が明かるうなっていく、自分の周囲が助かっていく、傍が楽になっていく。主人は店員たちの幸せを願い、店員たちはお店の繁盛を願う。と言うような所謂願い合いの信心です。
傍を楽させるという楽が一番の楽です。それをほんなら、先日からは人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理に合う信心をせよと仰る。タライの水を向うへ押せば、水は必ずこちらえ返って来る、こちらへ引こう、こちらへこちらへと言うと、水は反対に向こうの方へ逃げて行くという、これはもう、絶対の真理が有るわけです。そこで傍を楽させよう、傍を楽させよう。自分の周囲の人たちに、楽して貰おう楽して貰おうという、奉仕の精神というものはです。
私が愈々楽になる、それは道理に合った事でしょうが。タライの水を向こうへ押す様なもんですから、返って来るのはこちらの方へ返えって来るという、道理の上に立ったおかげが嫌が上にもこちらへ返って来る訳です。ですから一つ素直になろう。家族中が挙げて信心させて貰おう。どういう問題が有っても教会にお参りさせて頂いとったら、問題はその場で解決する。親先生が右と仰らそんなら右とそこに答えが出て来る。家族中の者がそこに例えば新たな嫁ごが来るとか、養子が来るとしましょうか。
もう絶対その嫁ごやら、養子やらはその素直な中に、素直に伸びない筈はないです。それは竹林の中の植物が、やはりこうこ曲がっとるとでちゃ、上を向いてしか伸びない様な道理なんです。今日私は最近のここの信心の決定版という感じがいたしますね。これだけはですね、もう難しい事じゃない訳です。わが心が神に向かうという、大改まりをさせて頂いてです。私共の行く手にあるものは、神愛のみだと思うから、生まれて来るのが安心なんです心が安らぐ。
信心しよるけん安心しとりますというのは、ほんなもんじゃなか。起きて来るどんな事が起きて来るか分からんけれども。それは神様が私に求めなさる所の修行であると思う。又私が愈々神に向かう為の神様の働きであると思うから、御事柄として受けなければおられないと言う安らいだ心を以って、愈々傍を楽させるという働きをする。成程是ならば世界が闇になるではなくて、世界が光になって潤うて行くだろうと思います。カンテラの中に、どんなに油が一杯あっても、芯がなければ火は灯らんと仰る。
どういう芯かというと、今日私が申しましたような芯。いわば値打ちのある芯、神様のご覧になる目でです、人間の一番値打ちのあるとはもう器量とか、技術が良いとか悪いとか、そんな事じゃなかです。頭がいいなんてこつじゃないです。トルストイという人が書いた「イワンの馬鹿」というのがありましょう。これなんかはここの所の、道理をわきまえての、あれは小説であると言う所にです。物語であると言う所に、値打ちがあるです。もう一切を良い方へ良い方へしか受けていかん訳です。
素直な心だからそういう値打ち人間ですから、値段も高うなる評価が高い。お互いひとつ最高の、値打ちのある人間を目指さなければいけません。そういう心の状態で、愈々傍を楽させる事の、いわゆる奉仕の精神というものが出来て来る。そこでわが心が神に向かうのを信心というのじゃと言うところをです。しっかり頂きませんとです、例えばきつい事が起こって来ると、もう私は駄目だと言う様にならん。
きつい事が例えばよりきつい事であればあるほどです、それだけ神様に近づいて行けれるんだという喜びとか、楽しみというものがない様な信心ではつまらん。信心しよるとに、どうしてあげな難儀が続くじゃろうかと言った様な信心では、だから世の中を明るくするような事にはなってこない。どんなに修行の真っ最中という時でも、その本当のその人の信心の、修行というものは。
光り輝くようなもんでなからにゃいかんです。まるきりあの人の後ろから、後光のさしよるごたるという様な値打ちのある修行でなからにゃいかんです。修行がもうしるしゅうして応えん、そげなつは修行じゃないです苦労です。今日はひとつ是をしっかり心に刻み付けておいて貰うて、そしてその線に添うて信心をして頂きたい。神様がご覧になる一番値打ちのある人間というのは、素直であるという事。
しかも素直でものを見、聞きそして素直に行なうて行くという事。そういう生き方からです、必ず生まれて来るのが私の行く手に、難儀な事はない困った事はない。それは信心の無い者から見れば、困った物に見えるかも知れません。けれども心の目を以ってするとそれは神愛だけだという、おかげがあるだけですから。成程心が安心に心が安らぐ訳です。いつの場合であっても心が安らいでおる。
そこで初めて信心しておるおかげで、何時も安心しておれるという事になるのです。そういう心の状態をもって、傍を楽させる、楽の最高の楽を、私共は求めなければなりません。傍を楽させるという働き。それは道理に合う信心からいうても、成程タライの水を向こうに押せば、こちらへ返って来るという理がある。だからどうでも自分を空しくして、どうぞ、お先にお先にという事にならにゃいかん。
それを我先になろうと言う様な考え方では、却って良かろうごとあって、お水は向こうの方へ逃げてしまっておると言う様な結果にしかならん。是はもう道理に合うた信心であり、それは本当な事であり、神様が言うて下さるのだから、絶対間違いないんだから、そこに、お互いの信心の焦点をピッタリ置いて、愈々わが心が神に向こうていくと言う事が信心だと、大改まりに改まらせて頂いて、おかげを頂いていかなければなりませんね。
どうぞ。